地域歴史探訪「習志野市の三大遺跡周辺めぐり」を開催しました
市内の三大遺跡周辺をめぐり、大昔に習志野で暮らした人々の活動の跡を辿りました。
1日目の9月28日には、藤崎堀込貝塚周辺を散策しました。
最初に本大久保埋蔵文化財調査室を訪問しました。
本大久保埋蔵文化財調査室は、本大久保保育所後にできた施設で、藤崎・谷津・花咲・鷺沼・屋敷などの習志野市内の遺跡出土品が多数展示されています。参加者の皆様も、このような施設があることを初めて知った方が多く、習志野の遺跡調査の発掘状況を詳しく伺うことができました。
次に、藤崎の堀込貝塚へ向かう途中、旧大沢家住宅に立ち寄りました。
この旧宅は、千葉県長生郡長生村宮成にあった旧家で寛文4年(1664)に創建されました。家の内部には創建当時の桁や梁が多く残され、東日本で最古級の民家といわれています。
旧大沢家住宅を出て藤崎堀込貝塚を目指しました。
藤崎堀込貝塚は、江戸時代に建てられた富士塚周辺の畑の中にあり、縄文時代後期の人々が食べた貝の貝殻、魚や獣の骨などが捨てられた跡です。
次に藤崎堀込貝塚近くの子安神社に立ち寄りました。
子安神社の創建は、鎌倉時代初期の治承4年(1180)と伝えられています。素戔嗚(すさのお)命とその妻の櫛稲田(くしなだ)姫命と木花咲耶(このはなさくや)姫命を祀っています。
ここで、1日目の地域歴史探訪は終了です。今回の探訪で藤崎堀込貝塚周辺では、約4,500~3,000年前の縄文時代中期から後期にかけて集落を形成し人間が住んでいたことがわかりました。縄文人の生活とこの地域の歴史を明らかにする上でも大変貴重な遺跡です。
2日目の10月5日には、谷津遺跡(谷津貝塚)周辺を散策しました。
最初に訪れたところは、谷津公園内の読売巨人軍発祥の地です。
昭和9年(1934)、アメリカ大リーグ選抜チームが来日し、谷津球場(この地)で全日本チームとの練習試合が行われました。後に、この全日本チームを母体にして大日本野球倶楽部が発足し、現在の読売ジャイアンツ(巨人軍)につながっているそうです。
次に、公園南端の芝生広場へ行きました。
この芝生広場の展望台からの谷津干潟は、絶景です。かつて、この地には伊藤新田という塩田が広がっていました。大正6年(1917)の津波によって存続が不可能になり、埋め立てられました。大正14年(1925)に谷津遊園ができ、昭和57年に閉園するまで遊園地として子どもたちに人気を博しました。
次に丹生神社に立ち寄りました。
丹生神社は、承応4年(1655)、和歌山県の丹生郡にある丹生都比売(にふつひめ)神社を分社して創建された神社で、谷津村の鎮守でした。
次に、谷津遺跡が広く所在する奏の杜公園に行きました。
谷津貝塚は、JR津田沼駅の南側から京成本線の谷津駅から京成津田沼駅間の線路北側付近にまで及ぶ、比較的面積の大きい遺跡です。この遺跡から大集落や谷津貝塚などが発掘され、農具や漁撈具、魚骨など、生業にかかわる様々な資料が見つかっています。奈良・平安時代の跡と推定され、谷津周辺は現在とは全く異なり、海に面し谷や川に囲まれた自然豊かな環境にあったと考えられます。
ここで、2日目の探訪は終了です。
3日目の10月12日には、鷺沼古墳周辺を散策しました。
最初に訪問したところは、菊田公民館前の日露戦役記念碑です。
この碑は、津田沼地区から日露戦争に出征した兵士の忠魂碑で、裏面には出征兵士の氏名と津田沼尋常高等小学校の初代校長であった吉野茂助氏の文が刻まれています。
次に、ワイガヤ通りのセブンイレブンの真向いにある大正学館の碑へ向かいました。
大正学館は、大正元年(1912)に津田沼尋常高等小学校の初代校長、吉野茂助氏によって創られました。3学年制の旧制中学校で多いときは111名の生徒が在籍していました。
次に三橋眼科前にある馬頭観音へ向かいました。
馬頭観音は荷運びの手段として使われた馬が急死した路傍や柴先(馬捨場)などに祀られた供養塔です。
次に、鷺沼城址公園内の鷺沼古墳に向かいました。
鷺沼城址公園の周辺には古墳が数基あり、昭和41年(1966)の調査で、これらの古墳は6世紀後半~末にかけて造られた前方後円墳であることがわかりました。鷺沼のこの地に有力な豪族がいたと考えられます。
ここで、3日目の探訪が終わりました。
参観者からは、知らなかったことがいろいろと学べました。とても貴重な機会になりました。興味深い地域の歴史を知ることができました。などと、ご好評を得ました。